◇「西欧来航者が語る『ポスト・アンコール史(十五~十九世紀)』―歴史仮説の構築作業から―」
(石澤良昭:上智大学教授〈特別招聘教授〉、上智大学アジア人材養成研究センター所長、上智大学アンコール遺跡国際調査団団長)
1431年頃に放棄されたアンコール都城がその後どうなったかという問題を主にヨーロッパ人の記録に基づいて解明したグロリエの著作『西洋が見たアンコール』(石澤良昭・中島節子訳、連合出版、1997年)の紹介と史料批判。グロリエは都城が放棄された後も、歴代の王は事あるごとに祖先ゆかりの地を訪ね、十六世紀中葉にアンコール・トムに王宮が再建され、その後アンコール・ワットをはじめとする寺院が修復されたという。さらに、水利網、農産物ほかの物産、経済活動、信仰などについて記し、伝統的な村落が存続してきたとする。筆者の師でもあるグロリエの原著が出版された1958年以後の諸研究に随時言及し、ポスト・アンコール期の問題を指摘。停滞していたこの分野の研究に一石を投じる一文で、今後の研究の進展が期待される。
◇「アンコール時代の彫像にみる人と神―刻文史料の検討から―」
(松浦史明:日本学術振興会特別研究員PD〈上智大学総合グローバル学部〉)
刻文に基づきアンコールにおける個人の彫像の造立のあり方を考察し、人と神との関係を明らかにしようとする論考。神仏のかたちをとった個人像の制作の確実な例は、9世紀末に遡るとし、次いで彫像を意味する古クメール語を検討。10世紀以降、サンスクリット語の借用である「ルーパ」の用例が多くなり、10世紀後半に初めて個人の姿をとった神像が造立されるようになり、12世紀末から13世紀初めのジャヤヴァルマン7世の時代に突如大規模に展開したとする。多数の刻文の厳密な読解による慎重な考察には説得力がある。
◇「アンコールのプレア・カーン寺院における尊像配置とその意味―出入口の浮彫図像と碑文の比較を通して―」
(久保真紀子:上智大学アジア文化研究所客員研究員)
ジャヤヴァルマン7世が建立した大仏教寺院プレア・カーンの尊像配置とその意味とを考察。同寺の12世紀末の石柱碑文は、本尊の観世音菩薩と430尊を安置したと述べるが、具体的にどこに何を祀ったかは明らかではない。そこで一部の祠堂の出入口に残されている碑文や現存する彫像により推測する。第二周壁の西側の諸堂はヴィシュヌ関係、北側は中心部にシヴァ関係、周辺にヴィシュヌ関係の像が配され、それ以外は仏教関係に宛てられていて、石柱碑文の記述と一定の整合性が認められるという。そしてジャヤヴァルマン7世は、多様な信仰をもつ人々を支配するために、仏教、ヒンドゥー教、祖先崇拝の混淆した配置にしたと結んでいる。
◇「十~十一世紀における宗教と社会体制―アンコール王朝最大版図へのあゆみ―」
(宮﨑晶子:茨城キリスト教大学講師)
7世紀頃に西北インドで成立した経典『カーランダ・ヴューハ』(KVS)を図像の典拠とするとみなされる10~13世紀の八臂観音菩薩像に焦点をあて、それらとKVSとの関連を比較検討することにより10~11世紀のアンコール地域の宗教と社会体制との関係に及んだもの。12世紀の中央集権化への布石の流れを制度や仏教の興隆という側面、さらには隣国チャンパーでの9~10世紀におけるKVSの伝搬と普及、およびその影響の視点からの立証を試みている。
◇「アンコール朝の交易と産業―陶磁器研究の視点から―」
(早稲田大学文学学術院准教授)
まず文献や碑文に認められるアンコール朝への寄進リストに中国の産品が多数を占めたことを明らかにしながら、それらのうちで現在まで遺るものは陶磁器類だけとし、発掘調査によって見出されたアンコールへの輸入陶磁器の産地や時代とその特徴を3期に分けて説明。その後、陶磁器以外の産業にも触れながら、クメールで生産された陶磁器(合子、瓶、碗、壺、甕、瓦、動物形態容器に大別)については、唐~宋代の中国陶磁器と同一の器種を示すとはいえ、形態や製作技法からその直接的影響関係を指摘することは難しいとし、また皿や盤が欠如していることや食器や調理具とみなせるものがほとんどないことなどにも言及し、アンコール朝の交易の姿を提示する。